東京タヌキ探検隊タイトル

東京タヌキタイムズ

115号(2018年7月) 緊急解説編

「雷獣=ハクビシン」説、誰が最初に言い出した?

緊急解説編の最後はこれまでとはちょっと違った話題にしましょう。

日本には「雷獣」という伝説上の動物がいます。落雷とともに落っこちてくる動物、というものだそうです。
現在は「雷獣=ハクビシン」という説が流布しており、Wikipediaにも書かれているほどです。
ですが私の記憶では昔にそういう説を聞いたことはありません。いつからそんな説が広まったんだろう、と調べてみるとどうも自分自身にたどり着いてしまったのです。

時系列で追ってみましょう。

私が東京都23区のタヌキに初めて出会ったのは1998年。この頃はハクビシンのことはよく知りませんでした。

日本でハクビシンが有名になったのはSARS騒動の時でした(SARS=重症急性呼吸器症候群)。
2002年末に中国南部で流行が発生、その後、海外に拡大し、特に2003年春に香港で大流行すると日本でも報道が多くなりました。
2003年5月ごろにハクビシンからSARSウイルスが発見され、ハクビシンが元凶とみなされました。実際にはSARSウイルスはいろいろな哺乳類に感染するため、ハクビシンだけが悪者ではありません。が、この俗説はかなり流布し、ハクビシンが急に注目されるようになりました。
この時にハクビシンという動物を知った日本人は多かったはずです。つまり、これ以前に「雷獣=ハクビシン」説は存在しなかったのではないかと私は考えています。

雷獣とハクビシンを結びつけた文献が現れるのはSARSよりも後のことです。

探せる限りで最初の文献は…
…あれ?、私の文章です。

2004年、川崎市市民ミュージアムで「日本の幻獣 未確認生物出現録」という企画展がありました(2004年7月3日〜2004年9月5日)。
これは私も見に行きました。そのことを書いたのが次のホームページです。

いきもの通信 Vol. 228(2004/7/11)
[今日の展覧会]「日本の幻獣」展(川崎市市民ミュージアム)を見に行った

展示の中には「雷獣のミイラ」も展示されていました。その正体はネコだと思われました。
このホームページの記述では私は雷獣とハクビシンを結びつけてはいません。展示の解説にもハクビシンのことは書かれていなかったようです。

私が雷獣とハクビシンを結びつけた文章を書いたのはさらに後になります。

いきもの通信 Vol. 367(2007/7/1)
[今日の動物探偵!]本所七不思議の謎を解く!その2

ここでは本所七不思議のひとつ、「足洗邸(あしあらいやしき)」の話に絡めて「雷獣=ハクビシン」説を唱えています。

ちなみに東京タヌキ探検隊!でのハクビシンの初記録は2007年12月19日でした(DBN152〜156)。この日、朝日新聞に私の活動についての記事が掲載され、それを読んだ方々が目撃情報をしらせてくれたのですが、その中には明らかにタヌキではなくハクビシンの目撃が混じっていたのです。これはちゃんと記録しておいた方がいい、と判断した私はタヌキと同様にハクビシンそしてアライグマについても記録することにしたのでした。
東京都23区内にハクビシンがいることはSARS騒動の頃から知っていましたが、この2007年12月までは具体的な目撃情報は入手できていませんでした。

次に出た文献は爬虫類学者の千石先生(故人)によるものでした。

「千石正一 十二支動物を食べる 世界の生態文化誌」
2008.2.15 〜「寅」を食べる〜 食う虎 食わぬ虎
(千石正一:動物学者/財団法人自然環境研究センター 研究主幹)

私(宮本)はアスキー勤務時代に「マルテメディア爬虫類両生類図鑑」で千石先生の担当編集者をしていました。ただ、千石先生は爬虫類両生類の専門なのでタヌキやハクビシンについて語り合った記憶はありませんし、私が東京タヌキに関心を持つより以前のことです。
また、2007〜2008年前後には千石先生とはまったく交流はありませんでした。ですのでお互いに直接の影響はありえません。

その次は農林水産省の文書です。

「野生鳥獣被害防止マニュアル ハクビシ」(農林水産省生産局農産振興課環境保全型農業対策室、羽山・竹内・古谷) 平成20年(2008年)版
※Wikipediaには「2007年」とありますが、正しくは「2008年」です。

と、いうことは私が書いた文章が「雷獣=ハクビシン」説の最初だということになるのです。
え、本当?
この以前に執筆年月日が特定できるもっと早い時期の文献があればぜひ教えてください。
ただ、私は何かの文献を読んで「雷獣=ハクビシン」説を書いた、という記憶はありません。

以上のことからわかるのは、「雷獣=ハクビシン」説というのはつい最近提案されたものなのだということです。今現在は「雷獣=ハクビシン」が当たり前のように流布していますが、昔からそう言われていたのではありません。

また、ハクビシンの他にも雷獣とみなされた動物はいるはずです。例えばイタチやネコなど食肉目哺乳類だった可能性もありますし、まったく違った種類の動物がハクビシンとされた可能性もあります。
「雷獣=ハクビシン」説はもっともらしい説明のひとつにすぎず、雷獣はさまざまな動物のイメージが重ねられている存在だと考えた方がいいと思います。

その続き(2018年10月追記)

「雷獣=ハクビシン説」について私よりも先に述べた文献が早くも発見されました。見つけたのは私自身です。ちょっと残念…。ですが、「雷獣=ハクビシン説」が普及したのはやはり最近10年ほどのことであるのも事実です。

その文献を紹介しましょう。

神奈川県におけるハクビシンの生息状況と同種の日本における由来について
中村一恵・石原龍雄・坂本堅伍・山口佳秀
神奈川自然誌資料 第10号、1989年

問題の箇所を引用しますと、
(ハクビシンの日本への移入の時期について)
「これ以前の確実な記録は見当らなかったが,明治以前にも生息していたと主張する人もいる。例えば, 御厨〔1978〕である。江戸期の「類衆名物考」所載の 雷獣図なるものがハクビシンを示すものだとして,すでに江戸時代には生息していたのではないかと推定している。」
とあります。

「御厨〔1978〕」とは文献「御厨正治,1978. 栃木県産獣類雑記.日前乳動物雑誌,7 : 160-163. 」を指しているので、こちらが最も古い「雷獣=ハクビシン説」となるようですが、こちらの文献はまだ確認できていません。
また、「類衆名物考」に載っているという雷獣図も未確認です。同書は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できますが、中身はほとんど文章ばかりのようです。この雷獣図とやら、誰か探してくれませんか?

この文献ではハクビシンの名前の由来も記述されています。台湾語での「白鼻芯」がそのまま日本語に持ち込まれたということです。すみません、このことは初めて知りました。中国語では「果子狸」と呼ぶことは知っていたのですが。
日本では1925年(大正14年)の「晴乳動物図解」(岸田久吉著、日本鳥学会発行)に「ハクビシン」として記載されているとのことです。
台湾が日本の統治下に入ったのは1895年(明治28年)です。つまり「台湾の動物」=「日本の動物」となったわけで、ハクビシンも日本の動物として認識されるようになったのです。大正時代には、台湾についての知見が日本でも蓄積・整理されてきており本にも収録されるようになったのでしょう。

この文献ではもうひとつ興味深いことがわかります。1989年時点では横浜市・川崎市へのハクビシンの進出はまだだったということです。
1989年よりも後の進出状況は次の文献で述べられています。

ハクビシンの横浜市内への進出について
板橋正憲・和田優子・富岡由香里・菊地昭夫
神奈川自然誌資料 第31号、2010年

これは1993年〜2008年の横浜市でのハクビシンの分布を調査したものです。この文献からは2006年には横浜市内ほぼ全域に分布が広がっていることがわかります。前の文献と合わせると、まだハクビシンがいなかった1989年から20年かからずに進出が完了しているのです。拡散の速度がかなり速いことがわかります。

ちなみに東京都23区でも東京タヌキ探検隊!がハクビシンの目撃情報を十分に得られるようになった2008年頃には既にほぼ全域に分布しています。
東京都23区でも横浜市と同じ頃にハクビシンは進出していたことが推測されます。

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